小学生、中学生、高校生、みなさんへ。
また全ての世代のみなさんへ
かけこみ寺
私たちの時代(じだい)は、多くの問題(もんだい)があり過ぎて、その問題をどうしたら解決(かいけつ)したらよいのかが分からなくなってしまう。また、どこへ自分の悩(なや)みを打ち明けたら良いのか。そこのところで問題解決の壁(かべ)が立ち塞(たちふさ)がり、途方(とほう)に暮れ(くれ)てしまうことが少なくないと思います。毎日のニュースでは、子どもが親を、親が子を殺すという事件を見るたびに、私の心は痛(いた)みます。多くの人々は脱出(だっしゅつ)する出口(でぐち)が見えない。必ず解決するという処方箋(しょほうせん)が見つからない。私を救ってくれるところはどこに、誰に求めていったら良いのか。求めても、求めても、そこが分からないで悩み、悩みがこうじて、自殺(じさつ)に陥(おち)いる。そういう時代に生きているのが私たちだと思います。
人生(じんせい)は,おもしろおかしく生きるだと、いわば開き直った生き方を選(えら)ぶかたもいるでしょう。
私は、教会(きょうかい)の牧師(ぼくし)ですから、その生き方の処方箋を知っているいますし、持っています。
実は、私も若い時代、父親を憎んだ時代がありました。牧師だから、何も悩むことはなく、順風(じゅんぷう)漫歩(まんぽ)で生きてきたわけではありません。むしろ、映画の主人公を生きてきたような、自分の過去(かこ)を、現在(げんざい)を、未来(みらい)を見つめます。
聖書の中に、放蕩(ほうとう)息子(むすこ)の話しがあります。
一人の青年(せいねん)が、自分(じぶん)の取り分の財産(ざいさん)を父親からもらい、好(す)き勝手(かって)に生きることを目指(めざ)しました。その青年は、お金はいくらでもある。お金は湧(わ)いて出てくるとおもったのでしょうか。好き放題をして遊(あそ)んだのです。しかし、現実はお金は無くなっていくではありませんか。そこが彼の問題でありました。しかし、その年は凶作(きょうさく)で、食べるものもあまり取れない、そういう季節(きせつ)が襲(おそ)いました。財布(さいふ)を見るとお金がない。おかしいな?どうしてお金が無くなくなっていくのだろう。彼はおどろきはじめました。おかしいな?と思った時にはもう、お金がありませんでした。お金がないから食べるものも買えません。そこで、息子はどうしたら、もとの生活に戻れるのかと考えはじめたのでした。
とうとう答えが見つかりました。そうだおやじのところは食べるものも、着るものも、いくらでもあるではないか。しかし、今さら、どういう顔(かお)をしておやじの前に立つか、彼は、ない頭(あたま)をねじ込んで考(かんが)えました。おやじ、おれはずいぶん勝手なことをしてきたから、もうおやじのまえに出る顔もないよ、そうだ、おやじの雇(やと)い人(にん)にしてくれないか。そう言おう。
彼は帰(かえ)りの道を歩いがらおやじに話す言葉を暗記(あんき)して歩きました。懐(なつ)かし家族(かぞく)の家が見えてきました。彼の頭はまた悩んだのです。行っても仕方がないかな~。怒られて帰れといわれるではないかな~。でも雇人(やといじん)だからいか。さて、おやじは待(ま)っていました。おやじは、毎日(まいにち)毎日(まいにち)待っていました。息子はどうしているかな~。どこへ行ったのかな~。病気(びょうき)をしていなかな~。と思い、心配していました。すると遠(とお)いところに、何か人間が見えてきました。あれ!また、近(ちか)づいて来ると、ああ!息子(むすこ)だ!
とうとう帰(かえ)って来てくれた。おやじの心はもう飛(と)び上がるような喜(よろこ)びに満(み)ちあふれました。息子をだきしめて、おう息子よ。息子よ。良く帰(かえ)ってきたな~。まっていたぞ~!息子はおやじに、おやじ、おれは勝手(かって)なことをして、申しわけなかった。もう息子(むすこ)ではなく、雇人(やといにん)としてここにおいてくれないですか。と言おうとしても、あまりにもおやじが強(つよ)くだきしめるので、暗記(あんき)した言葉(ことば)を言おうとしても、言えない、半分忘れそうになって、そおやじは。愛情(あいじょう)をこめてだきしめたのです。するとおやじが言いました。彼は、どき!として聞(き)き耳(みみ)をこらしておやじが言う言葉に耳を傾(かたむけ)ました。その言葉は息子にとって以外(いがい)な言葉でした。
ああ、よく帰ってきた。よく帰ってきた。
さあ、息子に新しい服(ふく)を着(き)せなさい。こんなくさい服を着て、さあ、風呂(ふろ)に入って、新しい服に着替(きが)えてきなさい。
さあ、今日は最高の食事をしよう。
おやじは言います。
『この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』
おやじたちは大宴会をして喜びました。
この息子は私たちのことです。
そう、あなたや私のことです。
おやじは、イエス様(さま)です。
聖書(せいしょ)にこのようなことばが出てきます。
イエス・キリストさまが言われました。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。
私があなたがたを休ませてあげます。
今、あなたはどこにいますか。
あなたは、孤独の中にいますか。
自分の人生を、どうしらよいか分からないでいますか。
両親を憎(にく)んでいますか。
殺意を思ったことはありますか。
誰かにだまされていませんか。
どんなことであってもいいのですよ。
人間は失敗(しっぱい)する存在(そんざい)だからです。
失敗しない人はいません。
教会は、かけこみ寺(でら)です。
昔のお寺は、問題に行きづまっている方々を受けいれて助けました。
この時代は教会です。
心がつぶれてそうなになったら、来てください。
あなたを守ります。
心が不安(ふあん)になったら、深(ふか)い悲しみが襲(おそ)ってきたら、孤独(こどく)で苦しんでいるなら、
来てください。
教会はいつでも待っています。ひとりでいくのが心配ですか。
最初は、教会の玄関(げんかん)をくぐるのに勇気(ゆうき)がいると思います。
でも、勇気を出していらしてください。その一歩があなたの将来(しょうらい)の力となり希望となります。
教会は3階にありますが、私たちは2階に住んでいますから、ブザーをならしてください。
いない場合もありますので電話かメールで知らせてくれると安心(あんしん)ですが、
そんな余裕もない時がありますから、いなければ、電話をくださって、飛んで帰ってきます。
あなたの言葉は、問題は他人に話すことはありません。
石川牧師と京子牧師はあなたの言葉を守ります。誰にも言うことはありません。心配しないで来てください。問題を解決しましょう。
静岡べテルキリスト教会
石川愛人(よしと)
石川京子(きょうこ)
電話・054-351-7388
携帯・080-5192-8779